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このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2006年09月02日

「ゲームの外側」の遊びへの注目

CEDECの美少女ゲームについての講演がネットで話題

評論家の東浩紀氏のCEDECでの講演がネットで話題になっています。

率直にいって東氏の講演内容はつっこみ所がありますし、美少女ゲームというジャンルは今のゲーム開発論壇(?)のホットトピックからも外れています。それでもCEDECにおいて、美少女ゲームが真面目に取り上げられたのは良いことです。

個人的にノベルゲームに注目しているのは、まぁ大好きだからという理由は除いてですね(笑、以下のような理由からです。

  • 他のジャンルに比べると、個人〜数人で制作しやすく、1つのメディアとして成立しつつある。
  • 物語メディアとしてのゲームの1つの極点であり、「ストーリーとゲーム」というテーマを考える上で、欠かすことができない。
  • 『月姫』『ひぐらしのなく頃に』のような、ネット上の口コミで売れた有名作品が現れている。
  • 『ひぐらしのなく頃に』はライブ感をもったストーリーゲーム
  • ゲームの外に面白さの比重がある


「ゲームの外側」の遊びの見直しが始まっている

少し前の記事で『ひぐらしのなく頃に』と『脳トレ』を取り上げたのですが、ちょっと誤解を招いたかもしれません。

『脳トレ』の例と『ひぐらし』の例では、それぞれ目的も効用も異なっていますが、どちらもここ最近のゲームの潮流を体現しています。一度の連続プレイでクリアされないような、かつそれが自然にプレイヤーに受け入れられ、その構造が楽しさを提供する。非ストーリー系ゲームとストーリー系ゲームの両方で、具現形が生まれているのが興味深いですね。
非ストーリーゲームの『脳トレ』とストーリーゲームの『ひぐらし』、ライトユーザーに受け入れられた『脳トレ』とオタクにヒットした『ひぐらし』を同一視することはできません。けれども共通する部分もあるんじゃないか、とボクは考えています。

端的に言えば、「ゲームの外側」が遊びになっていることです。ファミコンブームの頃にはそれが当たり前だったんです。バグ技もクソゲーも娯楽になっていた時代です。昔のゲームが面白かっただけでなく、ゲームユーザー同士のコミュニティそのものが遊びだったんです。

表現力が進化するにつれて、作り手の関心が「ゲームの内部」を作りこむ事に向かっていきました。それはある時点までは、多くのユーザーに支持されていました。求心力の時代です。しかしある臨界点を越えてしまうと、だんだん付いていけない人が増えていきました。「ゲームの内側の遊び」と「ゲームの外側の遊び」のバランスが崩れてしまったんですね。今はその揺り戻しが起きているんです(参考:ゲームデザインの構造的変換を示す「遠心力」というキーワード(前編)ゲームデザインの構造的変換を示す「遠心力」というキーワード(後編))。

ボクはプロセッサ性能至上主義をよく槍玉にあげますが、もっと噛み砕いて言えば、「ゲームの内側を強化すればするほど、ユーザーは喜ぶし、増えるし、もっとお金を払ってくれる。だからゲームの内側を表現する能力にコストをかけよう。それが進化というものだ」という考え方です。その思想が説得力を持たなくなってきたのは、多くの人が、ゲームの外側を強化した方がいいんじゃないか、と感じ始めているからでしょう。プロセッサ性能至上主義の崩壊とは、要は「ゲームの外側の遊びを強化することに労力とお金をかけよう」という事です。

高性能路線だとハードの値段が高くなってしまうとか、ソフトの開発費が回収しきれないような額になる、なーんて事はじつは重要ではありません。ゲームの内側の遊びと外側の遊びのバランスが偏ってしまったことに根本の原因があるんです。


変化はあらゆる層で起きている

最近、「ライト層向けのゲームでは変化や革新が起きているが、マニア層向けのゲームは従来路線にしがみついていて、何の革新性も無い」というような論調が強くなってきています。その意見にボクはちょっと違和感を持っています。

実際には、ライトユーザー向けのソフトにも、オタク向けのソフトにも、両方で変化が起きています。しかしオタク層での変化はライト層ほど急激ではなく、変化が表面化するのが少し遅れていました。そのため「ライト向けは先進的で、オタク向けは保守的」という偏ったイメージが広がってしまったのでしょう。ボクは本当のイノベーションというものは、ライト層もオタク層もなく、あらゆる層に伝播するものだと思います。

今、PS2市場が縮小していますが、それでも売れているタイトルを見ると、マニア層の中で話題性を維持できるものが多いです。『メルティブラッド アクトァデンツァ』なんかはすごく顕著で、2D格闘ゲームで今時あれだけ売れるのは珍しいことです。『月姫』や『ひぐらし』のような同人発のソフトがコンシューマー市場に進出してきて、マニア層限定とはいえ、売れ始めているのは明らかな変化の現れです。そこら辺はもっと細かく論じたいのですが、とても乱暴にまとめると、要は「そのゲームでどれだけ語れるか? 語りやすいか?」ということが非常に大きな価値になっています。

以前、今のマニア向けゲームには、アニメオタクにおける涼宮ハルヒほど、話題を独り占めするようなソフトが見当たらない、と書きました。でも別に、永遠に無いというつもりはありません。今は無いけど、必ず出てくるはずだと確信しています。変化の兆候はすでにいくつか現れています。ボクはその1つ(あくまで「その1つ」)がノベルゲームだと考えています。

Posted by amanoudume at 2006年09月02日 01:53 個別リンク
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コメント

今回の話題はかなり考えさせられました。

> ボクは本当のイノベーションというものは、ライト層もオタク層もなく、あらゆる層に伝播するものだと思います。

同意です。
陳腐な言い方ですが、ユビキタスコンピュータ社会によるパラダイムシフトの一つだと思います。

> そこら辺はもっと細かく論じたいのですが、とても乱暴にまとめると、要は「そのゲームでどれだけ語れるか? 語りやすいか?」ということが非常に大きな価値になっています。

「強度」だけ考えていればいい時代、過去のゲーム制作の方法論では、陳腐な言い方をしてしまうと、「奥の深さ」と「間口の広さ」への心配りだけを考えていれば良かったのでしょうが、「鮮度」への配慮も必要な現代の場合は、プレイヤーへの「問題提示」の方法論もゲームの設計に含まれてくるということなのかな、などと思いました。もう少し具体的に言うと、「次のバージョンではゲームバランスをどう調整するか」のように、時限的な仕掛けで、(ユーザーの反応を見て)「問題提示」を少しずつずらしながら、コミュニティを存続させるという方法論とかはすでにありそうだな、と。

> 以前、今のマニア向けゲームには、アニメオタクにおける涼宮ハルヒほど、話題を独り占めするようなソフトが見当たらない、と書きました。

ちょっと思ったのは、「話題」という言葉ですね。
ユビキタスコンピュータ社会によって、我々は「話題」に関する認識を変えざるを得なくなった(例えば、「話題」のスピードとか)。よって、今の時代のクリエイターは意識を、「話題」の操作というか、「話題」の取り込み方や「話題」を作る方法論に向けざるを得ないのではないか、というのはありますね(ふと、ネットによって万人がクリエイター(祭りの主催者)になる可能性があるこの時代にプロのクリエーターをやっていくのは凄いことだと思いました)。「話題」の大きさや重要性(問題提示を含めた社会における位置)、「話題」自体の鮮度も含めた寿命に対する意識、道具によって進化する「話題」の伝播速度や広がりのありよう、など、どの辺まで自覚すべきなのか。どこまでコントロールできるのか。

・・・んー、なんというか、この議論自体も、ある「話題」についての議論ではありますね。
というよりも、「話題」とは人間にとって何なのか、というか、人間としての基本とは何なのかとか考えてしまいました。

・・・まあ、でも、その辺の思索の言語化は思想家にでも任せておけば良いと思いますが、プロのクリエイターも無自覚にしろ、そこら辺も認識しているのかも知れませんし、認識していた方が便利かも知れませんが、ユーザーとしては良い作品を作っていただきたいですね、としか言えないです。

ファミコン時代のゲームは、鬼ごっこや缶蹴り、草野球と同じ感覚で友達同士を繋ぐ遊びだったんですよね。
ところが、いつしかゲームはプレイヤーとゲーム機が一対一で向き合うようになってしまった。
その路線を強化して行きつく先がプロセッサ性能至上主義の正体だと思うんですよね。

で、今市場を席巻しているのが、旧来のゲーム=人と人を繋ぐ遊びという路線。

ライト向けが革新だとかマニアが保守的だとかではなく、人と人、人とゲーム機の繋がりの比重がどの当たりに置かれているかがポイントだと思います。
今マニア向けと人括りにされているものは、人とゲーム機の比重が高いものを指していますね。
そういったなかで人と人の繋がりを重視する動きを革新的と言う。果してそうでしょうか?

市場の開拓と言う意味では当てはまっても、
ゲーム性という視点から見れば一つのベクトルにおいて基本を貫いた結果です。

PS時代においては人とゲーム機の繋がりの強化が支持され、それが革新的と言われた。
これも同じ事で、実はどちらも相反するベクトルを推し進めた結果得た(あるいは失った)ものなのではないでしょうか?

そして、マニアが遅れているという事も全然なくて、むしろ、同人という形でゲームを媒介として人と人を繋ぐ動きはかなり前からあったわけです。
しかし、ゲームというメディアはその特性上、複数の作品のかけ持ちが非常に難しい。
マニア層がその守備範囲の広さゆえにバラけてしまっては共通言語足り得る話題作がなかなか出来難いわけです。

そんな中、同人発のゲームにヒット作が生まれているというのは、
同人というマニアが作り出した市場故にマニアの共通言語になり易かった(=身内意識)というのもあるかも知れません。

つまり、マニアにおけるゲームの外側=同人ゲームのヒットと言えるのではないでしょうか?

> bin3336さん

今時のクリエイターは、少なくとも売上という物を強く意識している
クリエイターは「話題」を仕込む事に意識的にならざるを得ないで
しょうね。

ただ、特定の層向けのコンテンツであれば、同じ感性を共有することで
何とかなる部分がありますが、広く一般という事になると、かなりの
感性、「センス」「才能」という物が大きく関わってくる領域だと思います。


>BAN/さん

おっしゃる通りだと思います。
ゲームマニア層における「ハルヒ」級作品は、そう遠からず出てくる
と思います。美少女ゲームという限定された領域では、TYPE-
MOONやひぐらしがすでにそうなっているのですが、やはり
美少女ゲームというものはマニアの中でも嫌っている人がいますから、
広がりという点で少し制限されてしまいやすいですね。

同人ベースの物が美少女ゲームという枠をこえて伸びていくのか、
それともそのエッセンだけうまく取り込んだマニア向け作品が
現れるのか。確率的には、後者の方が高いような気がしていますが、
そういう作品は2、3年以内に登場するんじゃないかと思います。

ライト向けの市場が活性化することは非常に素晴らしいわけですが、
マニア向けの市場も活性化したほうがさらに良いわけで、次の
フェーズとして、そういう動きも起こるんじゃないかと思います。

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