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このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2006年06月11日

瞬発力と持続力(2) ゲームの「持続力」

ゲームそのものが新鮮だった時代

ゲームウォッチ〜ファミコンの頃、ゲームを続けさせる仕組みは「スコア」と「難易度」でした。容量が無かったため、多くのゲームは内容が短く、同じこと(ステージ)をくり返していました。そこで敵のスピードや出現頻度を徐々に上げていくことで、変化を作りました。難易度変化は単調上昇ではなく、ある周期で上昇しては一度低下し、しかし長期的には上昇している、という緩急がついていました。グラフィックを増やさないで変化をつけることに工夫があったわけです。
ABAの日誌 「単調シューティングをランクで味付け」

1つ参考になるのは、やはりゲーム&ウォッチかなあ。ゲームウォッチはだいたい100点単位でランクが上昇し、100点を越えるとがくっとランクが落ちるという作りになっている。ただし100点ごとの上昇量は得点が増えるほど増す。こうすることでゲームに絶妙な緩急がつき、あの単純なゲームでも楽しく遊ぶことができたわけだ。

技術の進歩、グラフィックの進歩にともない、同じステージがひたすらくり返すエンドレスゲームは減り、ステージクリア型のゲームが増えていきました。また、固定画面のゲームは減り、スクロール型のゲームが増えました。ゲームが進んでいるということを、スコア以外の数字で表現するようになったのです。

それにともない、ゲームに世界観やストーリーが導入されていきました。『ゼビウス』は良い例でしょう。しかし当時は余分な容量は無いため、明示的に物語を語ることはなく、敵の挙動やデザインで表現されていました。それを読み取れる人ばかりではないので、説明書にちょっとした物体設定やストーリーを書いて、補完することが多く、パッケージのイラストもプレイヤーの想像力を刺激する大きな材料でした。

しかしこの時代はまだ、「ゲームが上手くなること」がゲームを続けるモチベーションでした。ジャンルで言えばシューティングゲームに勢いがあり、「名人」というヒーローが子供たちから支持され、名人は映画になり、ハドソンの夏のキャラバンはたくさんの子供を集めました。「ゲームが上手いヤツはスゴい、カッコいい、エラい」という価値観が実在していたのです。この価値観は、日本では一過性のブームで終わり、対戦格闘ゲームが盛り上がった頃に一度再燃しましたが、長期的には衰退しています。

ゲーム自体が新しくて、みんなに興味を持たれていたからこそ、こういう文化が成り立っていました。新鮮味が薄れてくると、「別にゲームが上手くたってしょうがないよね」という風になって、ユーザーが減り、ゲームが上手いことが評価されなくなります。

(海外では今でもこの文化が残っています。賞金をかけたゲーム大会が定期的に行われたり、達人ゲーマーが他のゲーマーから尊敬され、アイドル、ヒーローとして扱われます。プロゲーマーという職業が成り立っている程です。北米発のXBOX Live!にもこの思想は色濃く受け継がれていて、オンライン対戦でランキング上位のプレイヤーの走りを、テレビ観戦するというモードが提供されていたりします。)


「誰でも最後まで行ける」時代

当初、ゲームは「プレイヤーの腕前を評価する」ものでした。しかしゲームが上手い人、下手な人の差が大きくなると、1本のゲームの中で両方の層をカバーするのが難しくなってきました。できる限り広い範囲をカバーするため、2Dシューティングゲームは難易度についての数多くのシステムを生み出してきました。しかし、それでも2Dシューティングゲームは全体として、マニアックなジャンルになっていきました。なぜなら、2Dシューティングゲームは、「狙って撃つ」「弾を避ける」というシンプルな遊びのため、操作/遊び/難易度に冗長性がないからです(冗長性を許容しにくい)。

処理性能が進化するにつれて、表現力が必要で、シューティングよりも冗長性の高い他のジャンルが盛り上がってきました。『スーパーマリオ』を代表とする2Dアクションでは、スコアは半ば形骸化し、限られた残機数の中でどこまで先に進められるかを目標とします。ステージクリア型のゲームは、明示的な「終わり」を提示してしまいます。そこが欠点ではあるのですが、逆に多くの人にとって、無限に続くというのは苦痛でもあります。また終わりがあった方が、目標としてはわかりやすい。

「続きを見たい、知りたい」「先へ進む」というのは、プレイヤーにとって大きなモチベーションです。そして、ディスクシステムによって花開いたアドベンチャーゲーム、そして『ドラクエ』から始まる和製RPGの登場で、ゲームに本格的に「ストーリー」が持ち込まれます。当時はまだ表現力が乏しく、ゲームで物語を作るなんて不可能だと思っていた人は大勢いました。しかし『ドラクエ』の国民的ヒットによって、あまりゲームに詳しくない人も、ゲームでストーリーを語ることの可能性を認めるようになり、糸井重里氏を始め、ゲーム業界の外からシナリオを書く人材がやってくるなど、物語メディアとしてのゲームは一気に盛り上がりました。さらにスクウェアの『FF』シリーズの台頭、PS時代のプリレンダ・ムービーの導入もあり、物語メディアとしてのゲームは10数年にもわたって、繁栄しつづけました。

また、RPG以外のゲームにも、RPGのような成長要素とストーリーが持ち込まれるようになりました。今や3Dアクションゲームでも、武器、成長するライフ、ストーリーは珍しくありません。RPGが日本で繁栄した最大の理由は、プレイヤーの操作の腕前によらず、誰でも最後までいけるからです。海やダンジョンで迷って、攻略本を買う人はいましたし、友達に情報を聞く人もいました。しかし情報さえもらえれば、操作の腕が関係ないので、誰でも最後までいけます。戦闘だって、レベルを上げまくれば、ラスボスにも必ず勝てます。

この仕組みは、プレイヤーと作り手の両方にメリットがあるものでした。シューティングやアクションゲームでは、下手なプレイヤーは最後までたどり着けませんでした。お客さんに最後まで見てもらうという、他のメディアでは当たり前のことが、「難易度」のせいで難しいのです。グラフィックが高度になり、ストーリーが入ってくるにつれて、作り手もプレイヤーも「最後までたどり着けるのがいいことだ」と考えるようになりました。また、ゲームソフトの価格が上昇し、ソフトの種類が増えるにしたがい、中古販売が盛んになっていきました。そのため、ビジネスとしても、ゲームを途中で投げ出されると不都合でした。(参考:ゲームはなかなか最後まで遊んでもらえないメディア


ストーリーとゲームデザインの融合と乖離

『ドラクエ』の堀井雄二氏は、堀井節の作る雰囲気やシナリオで評価されがちですが、日本の誇るトップ・ゲームデザイナーの1人です。『ドラクエ1』では、王様のいる最初のフロアから出るまでの間に、基本コマンドをすべて使う作りになっています。自然にチュートリアルになっているのです。また、プレイヤーが最初に出会った女の人に話しかけると、「いえ わたしは ローラひめさまではありません」という台詞が返ってきます。他にも、サマルトリアの王子との出会いの場面など、ドラクエ3部作では、プレイヤーの心理を読みきった台詞回しが多く見られます。草原、森、山でそれぞれ敵の出現率が違うこと、橋を渡ると敵が1ランク強くなる法則、呪文のダメージ設定(全き心の鏡「メラのダメージはなぜ10なのか?」)、色違いモンスター、・・・・。堀井雄二氏は、国民的ストーリーゲームのシナリオライターではなく、「仮想世界の主人公として冒険を体験できるゲーム」のゲームデザイナーです。

初期のRPGはストーリーとゲームデザインがきちんと密接に結びついていました。しかし表現力が高くなるにつれて、RPGという形式が当たり前のものになるにつれて、ストーリーとゲームデザインは乖離していきます。ストーリーとゲームデザインが密接に結びついていた最後の例は、色々な意見があるかもしれませんが、ストーリーとゲームバランスの連携があった『天外魔境2』でしょうか。PSが登場して、プリレンダ・ムービーが導入されると、その傾向に拍車がかかります。当時の容量では、すべてのイベントシーンをプリレンダムービーに収めるのは難しく、必然的に豪華なムービーシーンと、その間を埋めるイベント、それをつなぐ戦闘と探索、という作りになっていきました。

そしてRPGは豪華なムービーシーンを見るためだけに、その間の作業を強いられるジャンルになっていきました。ムービーという一見、究極な表現を手に入れたため、ゲームデザインの進歩もほとんどなく、ムービーとムービーをつなぐ部分も、発展が無くなりました。そのため、時間の無くなってきた大人のユーザーが徐々に離れていきました。今や、ほとんどの続編が前作よりも売上を落としている状態です。「ムービーだけ観られればいいや」という意見をもつユーザーも増えていました。そしてついに「ムービーだけのFF」である『FF7 アドベントチルドレン』が発売されると、100万枚の大ヒットを達成するに至りました。(参考:ストーリー神話の崩壊とゲーム業界の「ストーリー病」

また、10年前に映画とゲームの融合が叫ばれて以来、アクションゲームにもムービーシーンやRPGのような育成要素が導入されています。ここでも、アクションゲームとしての楽しさよりも、ムービーの豪華さや、ストーリーの都合が優先される傾向が目立つようになり、ユーザーの変化(時間が無い、さっさとストーリーだけ知りたい)に合わなくなっていきました。例えば、『バイオ』『鬼武者』は、数年前には100万本を越えていましたが、今や見る影もありません。

ゲームプレイを中断するデモとゲームプレイの相性は極めて悪く、今やその2つを分離させる流れが台頭しています。ムービーだけの『アドベントチルドレン』が大ヒットし、ノベルゲームは選択肢をなくした『ひぐらしのなく頃に』が注目を集めました。『FF12』が発売されると、YouTubeでムービーだけ観ればいい、という意見を掲示板などでよく見かけました。あらすじだけわかればいいやという人が増え、ストーリーを教えてもらうスレッド保管庫なんてものができています。一方でライトゲームの人気が高まり、プリミティブなゲームが再び支持されるようになってきました。
シナリオ成果方式とシューティングゲームに関する妄想

結局のところ、ストーリーはゲームを構成する重要な要素ではあっても、その本質にはなり得ない。人間は楽な方に流れる動物だ。よりストレス無くストーリーを消費するため、やがてノベルゲームよりはノベルが、フリーシナリオよりはただのシナリオが求められるようになる。やがてこれらの欲求は小説なり映画なりで代替されるようになり、ゲームを求める者はよりプリミティブなゲームへと回帰していくのだろう。最近のカジュアルゲームの台頭にはこういった背景があるのではないかと思うし、任天堂「レボリューション」の仕様はこの流れを読み切っているとも感じられる。

今後のトレンドとしては、MMORPG、『ポケモン』、『どうぶつの森』のようにゲーム内でストーリーがほとんど語られず、ゲームの外で物語が展開されて、プレイヤー同士の体験の共有を補完・強化するケースが増えていくと思います(参考:「ゲームとストーリーの幸せな未来?」)。


ストーリに代わる「持続力」はあるのか?

「ストーリー」は以前ほど持続力を発揮しなくなりました。
ではそれに代わる「持続力」は何かあるのか、というのが問題です。「瞬発力」だけでゲームを売ることはできますが、すぐに遊びつくされ、飽きられて、「所詮、こんな物か」と言われ、ゲームから離れる人が増えていくでしょう。

2006年におけるゲームデザインの最大の課題はこの1点に尽きる、と言っても過言ではない、とボクは思います。なにしろ、ストーリーはこの10数年もってきた、非常に有力な仕組みなのです。突然、使い物にならなくなった、と言われても、みんな困るでしょう。実際、「俺はまだストーリーの力を信じる、映像の力を信じる、それが面白いゲームの条件なんだ、一緒に信じてくれるユーザーだけが俺の仲間、俺のお客、俺の同志」と考えている開発者は、まだまだ少なくないと思います。言い方の強弱はあれ、ボクは自社他社の色々な開発者と話した中で、そういう人たちを見ています。それも仕方ない。だって、まだ次の仕組みがありませんから。だから、今ある仕組みに必死にしがみつく他ありません。

「ストーリー」の持続力低下を穴埋めする、汎用的な方法論。それはまだ完全には見つかっていません。しかし手がかりのような物はあります。例えば、『nintendogs』『脳トレ』『どうぶつの森』といった、毎日電源を入れて遊ぶソフトのゲームデザイン。それらは、特定のゲームでは有効に機能した仕組みです。意識の高い企画者は、「ゲーム2.0」とも言える最近の流れに敏感に反応し、水面下でゲームデザインの検討を続けておられることでしょう。(参考:ポップ・コラム「日本人だけに許された脳力鍛錬アイテム『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』」

最近の流れを見ると、「持続力」の意味が少し変化しています。
「持続力」とは、平たく言えば、ゲームを続けさせる要素のことです。プレイヤーに提供されたモチベーションのことです。しかしゲームを続けるとひと口に言っても、何時間も続けてそのゲームを遊び続けること、ゲームを途中で投げ出さずに最後まで遊ぶこと、毎日そのゲームを遊び続けること、どれも意味が違います。

そして、時間に余裕の無いユーザーが増え、時間を長く拘束するタイプの娯楽が好まれなくなり、すぐに始めてすぐにやめられる事が望ましい、とされます。最近、毎日少しずつ遊ぶゲームが大ヒットしているのは、ユーザーの変化を考えれば、自然なことです。


もう1つのアプローチ

「ストーリー」の持続力が弱くなったと書きました。ゲームプレイとストーリーの相性が悪くなったと書きました。
しかし勘違いしてほしくないのですが、最初から相性が悪かったわけではありません。『ドラクエ』が良い例です。元々、ゲームデザインとストーリーの相性は良かったのです。要は、ゲームデザインが世の中の変化、ユーザーの変化に対応できなかった、進化できなかったにすぎません。ですから、もしも、これから再びゲームデザインの進化が起きて、ユーザーの変化に対応できれば、ゲームとストーリーの蜜月時代がまたやってくると思います。

ボクは2つのアプローチが必要だと考えています。
1つは「ストーリー」に代わる「持続力」の仕組みを作ること。しかもそれが「ストーリー」のように色々なゲームに使えて、長持ちすれば、言う事はありません。そしてもう1つは、ゲームデザインの目立った進化の無いストーリー系ゲームのゲームデザインを進化させ、時代の変化に合ったフォーマットに作り直すことです。

こう書くと、勘のいい人は、このブログの内容が今年に入って、大幅に変わった理由がピンときたかもしれません。という所で、またも次回に続きます。ただし、その前に他のエントリーが入ってくるかもしれません。他に書きたい事もあるので。・・・・今回は持続力の歴史を振り返ることに、ちょっとテキストを割きすぎちゃいましたね。

Posted by amanoudume at 2006年06月11日 13:54 個別リンク
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コメント

自分はネットゲーマーですが瞬発力と持続力はやはりありますねー
画面がきれい、キャラが萌えるという瞬発力。
持続力はコミュニティというのがMMOでの共通見解なのかなぁ?
あとは他人との比較(競争?)みたいな部分でも持続力があるみたいですね。

ただ、この辺も閉塞感があって業界でも打開策を求めて右往左往してる感じみたいですけど。

MMOについては、まったくその通りですね。>瞬発力と持続力

ボクが書いた持続力の例も、ラフなものであって、精密さを欠く
部分があります。ストーリーだけが持続力なわけでもありませんし。

「瞬発力」と「持続力」という視点は、ゲームデザイン論のようで、
半分は商品企画論だったりします。例えば「マインスイーパー」
というゲームは「瞬発力」は無いが、「持続力」があるゲームです。
しかし「瞬発力」が無いゲームは、商品としては売りにくいです。
そのためWindowsのアクセサリーに入っているようなソフトは
パッケージではなかなか出しにくいです。

必ずそうだ、という訳ではありませんが、「瞬発力」のあるゲームは、
繰り返しに耐えにくい物が多く、「瞬発力」の無いゲームは逆に
繰り返しに耐えやすいゲームが結構多いですね。

MMOの場合、パッチや追加データの類で新しい要素を追加することでゲームをリフレッシュし、同時にゲーム全体のスパンで見るとゲーム自体の延命につなげています。
これは瞬発力と持続力を同時に出せる要素といえるのではないでしょうか。

労力やコスト面で考えて理想のモノではないとは思いますがひとつの要素ということで。

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