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このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2006年06月19日

日本のゲーム界は「映画→テレビ」に匹敵する歴史的分岐点を迎えている

今回の記事は「ゲーム言説界の性質」の続きのつもりで書きました。

プロセッサ性能至上主義の崩壊がもたらすもの

ゲームは過去数十年にわたって、技術の進化と共にゲームデザインを変化させてきたメディアです。実際、次世代ゲーム機が出れば、その性能を活かした次世代ゲームが生まれることが期待されてきました。性能向上がゲームを面白くし、ゲームユーザーに支持され、売上も市場も業界も成長するという、素朴な楽観主義が信仰されていたのです。

しかしこの特性は、これから変化していく可能性が高いです。というのは、今やプロセッサ性能至上主義の崩壊が誰の目にも明らかになったからです。それはDSが証明しましたし、今年のE3で多くの業界人が認識したことでしょう。今週のファミ通(P.21)ではなんと、あの鈴木裕氏がプロセッサ性能至上主義が終わったと語っています。

技術が上がれば上がるほど、ゲームがおもしろくなって伸びていった時代。でも、いまはそうじゃない。技術はユーザーにとってもう十分満足する状態にあって、成熟期ですよね。DSを成功を見ても、ユーザーはもっと種類の違う遊びを求めているように思います。映像表現という部分では、もう「映画を目指せばいい」っていう時代じゃない。
鈴木裕氏といえば、ある意味、性能至上主義の権化ともいえるゲーム制作者でした。そういう人でさえ、プロセッサ性能至上主義の崩壊を認めているのです。

プロセッサ性能至上主義の崩壊は、大勢の人たちの共通認識になりました。ではゲーム産業にどんな影響が現れるのか。それは、単にPS3とWiiのシェアがどうなるか、などというちんけな話に留まりません。ゲーム会社の経営は? 開発手法は? 作家性は? 消費のされ方は? あらゆることに変化が波及するでしょう。

今、日本のソフト市場は大きく偏っています。PS2市場が急激に落ち込んで、DS市場が急拡大しています。
それはDSがPS2からお客を奪ったんじゃないんですよ。欲しい物が無ければ、ユーザーは離れていきます。いわゆる「ゲーム離れ」現象をくぐり抜けることで、日本のゲーム業界人はそれをイヤという程知っています。つまりもしDSが無ければ、アタリショックとはいかなくても、歴史的な市場変動が起きていたんです。それぐらい大きな変化ですから、ついていくのは大変かもしれません。ここを乗り切るためには、市場の変化がどういう物なのか、より多くの業界人が「認識を共有」することが大切です。


技術の進化がゆるやかになるとどうなるのか

ゲーム業界では、技術の進化によってゲームデザインが変化し続ける、という考え方が根強いです。そこがゲームというメディアの特異性の1つだと考えられてきました。逆にいえば、性能進化が非常にゆるやかになった時、いったい何が起きるのでしょうか? それについても、昔から議論はあったのです。その一例を挙げます。Classic 8-bit/16-bit Topicsの過去の記事で見つけたのですが、97年の時点のfjでの議論です。

洗練されるから進歩が止まるのではなくて、技術革新が起こらなければ進歩止まって、洗練が始まるのだと思います。映画で良く言われますが、今の映画は白黒映画の最後の頃の洗練には未だ到達していないとか、そういう事なんじゃないかと思います。
#SFXやCG技術が出なければ、とか色々想像出来ますよね。

だから、ゲームも技術革新が止まらない限り、永遠に洗練はされないのでは、と僕は思います。

このように、議論そのものは昔からありました。しかし実際にその日がいつ来るかは、人によって意見が異なっていたと思います。そして現在、実にたくさんの人たちがその認識を共有しています。

ノベルゲーム、パズルゲーム、2D格闘ゲーム、2Dシューティングといった「枯れたジャンル」は、同人ゲームやフリーゲームでも多く作られていて、ゲーム会社という商業土壌の優位性が失われつつあります。ノベルゲームの『月姫』『ひぐらしのなく頃に』、2Dシューティングの『東方』は、制作者の認知度や、作家のカリスマ性という点で、多くの商業作品をはるかに凌駕しています。制作者とユーザーの距離が近いのです。制作者の名前ではなく、会社の名前で買われるのが当たり前のコンシューマ市場とは異なる文化が定着しています。
(以前の記事でより詳しく触れていますので、興味をお持ちの方はご一読ください。発熱地帯「ゲームの二極化の果てはパブリッシャー/スタジオ/作家の3階層モデル?」

ここでいう「枯れた」とは製作技術的に「枯れた」という意味で、人気が無いという意味ではありません。しかしゲーム機のソフト市場では、枯れたジャンル=売れないジャンルだったのも確かです。かつてのゲーム市場は「プロセッサ性能至上主義につき従ったゲーム」+「枯れたジャンルのゲーム」でした。しかし今や、ゲーム市場は「大多数のゲーム」+「一部の従来路線の大作ゲーム」になりつつあります。


「映画→テレビ」に匹敵する歴史的分岐点

技術の進化がゆるやかになるということは、アニメ、テレビドラマ、バラエティ番組、コミック、小説に近づいていくということです。ここ最近の「据置→携帯」の流れで顕著なのはゲームの日常化です。月に1回か2回、高い金を出して、非日常的な体験をするメディアではなく、手頃で気楽で身近で毎日遊べる娯楽が受け入れられているわけです。ゲームは映画的なものとテレビ番組的なもの、2つに分化していくと思います。

テレビ番組的な路線に進むゲームは
    ・ゲームの低価格にともない、低予算・短期間での開発が求められる。
    ・映像的なクオリティはそこそこで良く、テーマ性(実用性やブーム性)を重視したものがヒットする。
    ・低価格化の流れの中で、ダウンロード販売にもスムーズに乗っていく。
    ・広告費でソフトの制作費をまかなうビジネスモデルが台頭してくる。ますますテレビ的。
       - マイクロソフトがゲーム内広告のMassiveを買収している
       - Windows Live等のLive戦略を考えれば、XBOX Live!も広告ビジネスが載ってくる
         と見ていい
       - Gyaoでも一部だがゲームを掲載している
    ・放送と通信の融合に、ゲームのダウンロード配信とアバタービジネスが載ってくる。
    ・コンテンツも、1から作るというより、フォーマットの中に絵や音を入れていく形のものが増えていく。
       - PCのノベルゲームをイメージするとわかりやすいかもしれない。
         エンジンがあって、テキストと絵と音を少人数で作って、一定の品質の物が制作できる。
    ・映画が時間を置いて、テレビでも放映されるように、映画的な路線のゲームが時間をおいて
     テレビ的な路線のゲームの価格帯で発売されることもある。今の廉価版商法を考えれば自然。
    ・携帯、PC、携帯ゲーム機、据置ゲーム機、すべてネットワークサービスを重要視している。

ゲーム=インタラクティブメディアも、映像メディアと同じような歴史をたどっていると言えます。映像メディアは映画から始まって、やがて通信の技術の発達と共にテレビが現れ、大衆娯楽の地位を映画から奪い取りました(映画が消えてなくなったわけではないし、人々が映画を観なくなったわけでもありませんが)。テレビが出てきた時、映画を作っていた人たちは馬鹿にしたかもしれませんし、あんなにショボいものに負けるはずがないと思ったかもしれません。しかし両者の関係がどうなったか、ボクたちはよく知っています。

今、ライトゲームの隆盛について、あれこれ否定的なことだけを言っている人たちがいますが、もしかすると彼らは「かつてテレビを批判した映画人」のようなものなのかもしれません。今この時代は、10年前のブームの再生にすぎない懸念はありますが、しかし大衆娯楽が映画からテレビへシフトした時のような歴史の分岐点なのかもしれません。

例えばライトゲームはコストの安さが求められるので、コスト勝負では中国や韓国に勝てないという意見があります。しかし、では日本のテレビ番組は中国や韓国に乗っ取られてしまうのでしょうか。まぁ現実には放送の囲い込みがありますが、仮にそれが無かったとしても、日本の消費者が中国や韓国のバラエティ番組を支持するとは思いません。韓流ブームがあったとしても、「日本のドラマは韓国に潰される」などと真顔で言っている人はいなかったはずです。もし今のライトゲームにそのような不安があるのだとしたら、コンテンツの日常化がテレビ番組に比べて、圧倒的に足りていないだけなのです。

今、据置→携帯の流れについていけない会社(や人々)は、色々なことを言うわけです。「ショボい」「安くていいのか」「俺はそんな単純なものを作るために働いてるんじゃない」「アイデアが尽きたら、結局グラフィック競争になるよ」・・・・。要するに、映画スタジオでテレビ番組を作ろうとしているようなものです。それで作れないだの、大変だの、と言っているわけで、そりゃ当たり前です。発想の転換ができていないのですから。

いま日本のゲーム業界で起きている地殻変動は、「映画」の時代から「テレビ」の時代への移行のようなもの、と捉えると、概ね納得できると思います。

Posted by amanoudume at 2006年06月19日 15:01 個別リンク
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コメント

確かにその通りだと思います。
しかし、スペック至上主義が一時的に停滞を迎えているのも、スペックの向上に対する具体的なビジョンを示していないからでしょう。
出る前から大失敗されるとしていたシェンムーで見事に失敗した鈴木裕氏も、シェンムーでプロセッサ至上主義のアドバンテージを上手くアピールできていなかった訳ですから。
スペックをアピールできるゲームが登場してしまった時、DCがPS2に負けたようにWiiもPS3やXBOX360に負けてしまうかもしれません。
今の状況からでは、そんな状況は想像できませんが…。

そもそも、現行世代機では性能の低いPS2が勝っ
た(DCだってPS2より性能が劣っていたわけじゃない、GD-ROMなので容量が負けているぐらい)、スペック至上主義は既に崩壊していたと思うんですが。

スペック至上主義、確かに昔はこれで進化していましたね。

特に、バーチャファイターシリーズはまさにそうだと思います。

1が出た時には、画質なんか問題じゃなく3Dで人間が表現出来て
それらしく動いている事に衝撃を受け、2
では、さらにポリゴン数が
増えより人間らしくなり、3ではポリゴンっぽさも完全に消えました。

4辺りになってきた時に、確かによく見れば画質は向上している
けどだんだんそんなに進化しているように見えなくなってきました。

それがある意味、バーチャファイターにとって、スペック至上主義の
行き詰まりの始まりのような気がします。

でも、1を始めて見た時の衝撃は凄かったですよ。
それまでゲームの人間って2Dキャラしか見た事なかったので(^^ヾ

スターフォックスとバーチャファイターを見た時は衝撃を受けました。
そこからはどんどん美麗になって行くボリゴンやムービーに感動したものです。
そんな折りにメイドインワリオが受けて「おや?」と思いましたが、
いよいよ重厚長大の揺り戻しとしての軽薄短小が本格的な潮流になって来ましたか。
やはり潮流というのは流転して原点に戻ってくるのでしょうか?
なんだか任天堂の山内前社長の言う通りになって来ましたね。

岩田社長自ら「人は何に驚くのか、何を面白いと思うのかを真剣に考えている」
と言っている任天堂は大丈夫でしょうが、
「ゲーム」を作って「遊び」を考えて来なかった多くのサードがどうなるか心配です。
今は良い意味で任天堂を、良くない意味でスクエニとナムコに注目しています。

思うのですが・・・昨今のDSの爆発的人気、これ、5年で停滞する気がします。
と、いうのは結局任天堂以外のメーカーがやってることって「後追い」なんですよね。据え置き時代と何も変わっていないというか・・・

 結局今までの「派手なビジュアル重視だと金が掛かるから携帯なら金が掛からないだろ?だったらそっちで似たようなゲームいっぱい出すべき」と企業は考えますよね?すでに兆候が見られますが粗雑乱造の時代です。

 じゃあ、その後に何が控えているかといえば、また例によって重厚長大の復権かと。
 歴史は縮小、細分化しながら繰り返す気がするのは私だけでしょうか?

それともゲーム機という存在自体がなくなるのか・・・

スペック至上主義の崩壊という面もあるでしょうが、スペックを追い求めていくというのは結局のところ映画で言うと「続編」なのかなと感じます。やっぱり1作目がいい、というのは、それまでに見せてくれなかった世界を見せてくれるからですよね。PS3はStarWars Episode Iで、DSはMatrix だなあという印象です。結局は、技術≒スペックの使い方なんでしょう。PS3もCell がつながるという技術(見せ方)によっては楽しそうです。

>かもさん
>また例によって重厚長大の復権かと。

ボクは「性能重視・重厚長大」というのと、「アイデア重視」は
対立項ではないと考えています。この2つ、よく対比されがち
ではあるんですが。

アイデアが豊富だから、安く作るわけではないし、アイデアが
無いから高く作るわけでもありません。アイデアが良いとか、
脚本が良いとか悪いとか、そんな事関係無く、テレビドラマに
映画の予算をかけたりしませんよね?

価格帯と流通と予算で住み分けてしまうのではないか、という
のがボクの記事の趣旨です。極端な事をいえば、ゲーム広告で
ライトゲームを配信するビジネスモデルが仮に成立したら、
テレビ番組と同じで、予算内で作るしかなくなるわけです。
「視聴率」(アクセス率?)で多少の増減はするにしても。


>ysaさん
>良くない意味でスクエニとナムコに注目しています。

ナムコが「良くできたバンプレスト」になっちゃう不安を感じるのは
わかるんですが、ゲーム系サイトを見ていると、最近スクエニに
厳しい人が増えてるような。要因は何でしょうか?
FFのアクションゲームとか、よくわからない乱発ぶりが反感?

言ってる事はそれほど間違いじゃないと思うのですが、コンテンツ
の事をわかっている人が経営の上層部に少ない気はしますね。
   ・経営と開発にズレがある印象を拭えない
   ・FFの展開が「ファン食い物&先細り」っぽい
   ・ベンチャーに色々種をまいているようでどれも
    芽を出しそうに無さげ。「目利き」が少ないと言うか、
    名ギャンブラーが少ないというか。

ゲーム会社では、家庭用部門もひさしぶりに黒字化して、セガも
いい感じに上向いてきてますが、セガサミーの里美氏も名ギャン
ブラーですからねえ。DQもFFも元々理屈ではなかったと思うん
ですが、娯楽は理屈だけでは回らないよ、という事をどれだけ
うまく回せるかなんですよね。任天堂にしても、岩田社長の理屈が
印象に残るけれども、宮本茂氏の感性とのバランスがあるわけじゃ
ないですか。ただ、どうしても理屈に傾いていきがちですよね。

坂口氏を外した穴はやはり大きいなあ、と。つっても坂口氏に
あれだけの権限を持たせたのは失敗ですし、今さらひげの
御大に目利きとしての力が残っているかと言うと疑問ですが、
理屈の一歩先を行く方法を模索していかないと、厳しいでしょうね。
理屈って結局、起こった事だから説明できるというだけで、根本
的に「後追い」ですから。

例えば『ハルヒ』にしても、あれは「桂馬飛び」ですからね。
後から理屈はいっぱい付けられますし、そうすると先に理屈が
あるんじゃないかって錯覚されがちなんですけど、そんな事は
ありえないです。
ただ人間って、起きた現象に対して、説明を求める生き物なんで、
じゃあとりあえず説明しましょうか、という。それが理屈なんです。
けど、説明しちゃうと、なんだか理屈が先にあるような誤解が
生まれちゃうんです。ボクなんかはそれを確信犯的にやっている
わけです。すげー、性格悪いw

このブログに書いてあることの90%ぐらいは理屈にすぎません。
それだけでは面白くないので、10%ぐらい「競馬飛び」というか
「妄想っぽいこと」も混ぜてますけど。

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