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このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2005年04月13日

ゲームの二極化の果てはパブリッシャー/スタジオ/作家の3階層モデル?

パブリッシャー/スタジオの2階層モデル

二極化していく「未来」で簡単にふれたように、ここ数年、ゲームが大作路線と低価格軽量路線に分化しています。そして今後もこの傾向は続くでしょう。低価格路線はプラットフォーム別で見れば、NoRoyaltyやネットワークによるメディアレス配信などにより、PCや携帯電話といった非ゲーム機でむしろ盛り上がっています。ただ、DSの登場によって、「コンパクトな規模でもアイデア勝負でいける」下地が生まれつつありますし、PSPにおいても非UMD部分でのゲーム配信に可能性が見られなくもありません。コンシューマーにおいても徐々に、低価格軽量路線が一定の勢力になり得る「下地」ができつつあります。

現在、ゲーム会社は強力な営業能力や自社版権をもつ「パブリッシャー」と、営業能力で劣り、自社版権が弱い「スタジオ」への分化が進んでいます。欧米ではパブリッシャー/ディベロッパー(スタジオ)の役割分担が明確ですが、自社ブランド・自社開発が根強かった日本のゲーム業界も年々、欧米型の産業構造に近づいています。

会社と作家への分離?

また「まぁとりあえず・・・ 」でふれたとおり、ノベルゲーム、パズルゲーム、2D格闘ゲーム、2Dシューティングといった「枯れたジャンル」は、ゲーム会社という商業土壌からスタートする優位性がほとんど失われつつあります。(ここでいう「枯れた」とは製作技術的に「枯れた」という意味で、人気が無いという意味ではありません)

製作技術的に「枯れた」以上、商業土壌と非商業土壌の開発面での優劣の差はかなり小さくなっています。商業土壌では、よりたやすく物量に走れるため、内容を豪華にしたり、ボリュームをふくらませやすいです。けれどもこれら「枯れたジャンル」では、豪華主義やボリューム主義が有利に働くわけではありません。

むしろより買い求めやすい値段で提供したほうが、よほど売上につながる傾向があります。(2D格闘ゲームはまだ若干、豪華主義が通用するかもしれませんが)通常のパズルゲームに比べて、ゲーム内容のボリュームを増大させた「メテオス」の売上がパッとしないことも、1つの実例といえるでしょう。惑星のコレクション要素やプリレンダムービーに反応したユーザーがどれだけいたのか。そんなことにコストをかけるより、「遊びやすくなる」と公式サイトで推奨していたタッチペンを同梱したり、より買い求めやすい価格にしたほうが、よほど売上に貢献したと思います。

また、「メテオス」と「ZOO KEEPER」のメディア展開(メディア経路)を比較しても、商業作品らしいマス展開(TV CMや、TouchDSへのイベント出展、店頭での体験版ダウンロード、ファミ通での制作者のコラム、ムービー制作)がさほどユーザー層を広げない、という現状がわかります。体験版を遊んでもらえるという点では、ネットで配信可能なフリーゲームや同人ゲームのほうがはるかに有利だったりします。

フリーゲームの「ZOOKEEPER」、ノベルゲームの「ひぐらしのなく頃に」、2D格闘ゲームの「メルティブラッド」など、先例は確実に増えつつあります。これは日本だけの傾向でなく、海外でもそうで、FLASHのアクションゲームとして開発された「ALIEN HOMINID」がPS2やGCに移植され、発売されています。すなわち、従来型の職業的ゲーム開発者(ゲーム会社に勤務して開発)とは異なる形態でゲームを作る人々が台頭しつつあります。

ゲームという枠に閉じ込められていた可能性たち

長らくゲームという商品は、数千円の価格でパッケージ販売される形態が主流でした。ゲームという枠の中に「小説」や「漫画」のような規模の物もあれば、「映画」のような規模の物もあるにもかかわらず、同じようなくくり方、同じような値段のつけられ方、同じような売られ方をしていたわけです。今後は「映画」のような大規模で値の張るゲームと、「小説」や「漫画」のような小規模でお手ごろなゲームに二極化していくでしょう。と同時に、100人以上の人員を投入して「映画」を作るスタジオの他に、1人〜数人で「小説」や「漫画」を作る作家(作家集団)が台頭してくるのでしょう。

ゲームという枠の中に押し込められていたせいで伸び切れなかったさまざまな可能性が、いくつかの均衡点の周りに集まり、市場と価格的・ボリューム的な折り合いをつけるのでしょう。今年の始めに書いたとおりです(「あけましておめでとうございます!」)

おそらく次の5年間(次世代据置ゲーム機の世代)の課題は、価格と消費時間と開発コストのつりあい、ユーザーの欲求と供給側の思惑のつりあいを取ることでしょうね。
ここで書いている「ゲームという枠」とは、主にコンシューマーゲームのことを指しています。携帯電話ゲームの浸透によって、数年前から小規模開発が進んでいたのは確かです。ただ、最近の動きを見ていると、拡散/旧構造の崩壊ではなく、より新しい産業構造の構築のフェーズに入りつつあるようです。このところ中規模のゲーム会社が買収されるニュースが続いていますが、パブリッシャー/スタジオ/作家の新階層構造ができつつある中、立ち位置を失いつつある会社がどこかの階層に吸収されているわけです。

今、経営が傾きつつある大手にしても、ぶっちゃけ「こんな売れなさそうなソフトを、見るからに大金かけて、いったいどーすんのよ?」という大作ソフトが目立つわけです。大作路線のソフトはじつはそんなにタイトル数は要らないわけですよ。「ふるい」にかけられているのが現状です。

映画のタイトル数と小説や漫画のタイトル数が異なるように、ある程度絞り込まれた大作路線のゲームと多数の低価格軽量路線のゲームに分化していくと思います。今あぶない会社というのは、実際には大作ソフトを開発し、販売する能力が無いにもかかわらず、「俺はまだやれる!」と思い込んでいる会社だったりしま
す。(想像がつくと思うので、あえて具体名は出しません)

「未来のゲーム」

そして「本」(これまでは小説と書いてきましたが)が非常に多様な内容を表現しているように、ゲームというメディアも、より低価格化し、より多数の作家が参加していく過程において、非常に多岐にわかれ、その世界は果てしなく広がっていきます。

そうですね、たとえば・・・・そう、従来の「ゲーム機ビジネス」に踏みとどまった例ではありますが、DSの新しいソフトラインナップ(「nintendogs」「エレクトロプランクトン」「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「DS楽引辞典」「やわらかあたま塾」)などに可能性の一端を見出せるかもしれません。

もちろん何もDSだけでなく、他のプラットフォームにおいても、新しい可能性が芽を出しつつあります。「未来のゲーム」というものは、とてもとても広い範囲をカバーしています。アクションゲームの未来がどうなるか?RPGの未来がどうなるか?というのは、とても狭い議論です。未来のゲームとは非常に広大なメディア世界なのです。

「日本のゲーム業界が元気が無い」「地盤沈下している」とよくいわれます。しかしゲーム世界そのもの、インタラクティブワールドが衰退しているわけではありません。中央の王朝が衰退し、従来「周辺」と呼んでいた(じつは広大な)領域に新しい勢力が出現しているだけのことです。古来より、王国は辺境の蛮族によって滅ぼされ、帝国は辺境の民族を内部に取り込むことで複数文化から構成される強固な基盤を築き上げ、版図を広げていきました。

ファミコン20年の間、ゲーム業界や、文化的地盤としてのゲーム論というものは、主にコンシューマーゲーム機を文化的中央に据え、アーケードゲームとPCゲームを近隣諸国として版図を広げていました。その外に「辺境」があります。けれども、いつまでも「辺境」を「辺境」として遇するだけでは、王国は滅んでしまうでしょう。「辺境」を取り込んで帝国を築けるか、そこに日本のゲーム業界の未来がかかっているといえます。

したがって、狭い意味での王朝間戦争だの、狭い意味での日米ゲーム業界優劣論には、じつは大した意味は無いのです。非常に狭い議論です。地球上のどこにも国境線などという線は引かれていません。同様に、未来のゲームもまた非常に広大なメディア世界であって、そこに境界線など引かれてはいないのです。新しい線を引きたければ引き、新しい旗を立てたければ立てるといいでしょう。それだけの土地が我々の目の前に広がっています。衰退?停滞?地盤沈下?どこの国の言葉ですか?

Posted by amanoudume at 2005年04月13日 12:52 個別リンク

コメント

コントローラがあって、画面の中に介入できる。これが、ゲームの基本的な概念だと考えています。これは縛りの少ない広大なメディアで、他の文化を受け入れ
やすいかもしれません。
よくよく考えてみると、使用している人間が介入するものって音楽にしろ、映画にしろ、娯楽のコンテンツとして珍しい部類に入るのではないかと思う。他のメ
ディアよりも受け手に対する親和性に富んでる様に感じる、WIZみたいにただの記号や数字に愛着が沸いたりとか。けれど、音楽はスイッチを押せば聞ける
し、映画は誰でも最後まで見れる。可能性が広大があるがゆえに難しい部分もあると思う。

辺境に開拓しに行って、収穫の時期まで持ちこたえる体力のある会社が現時点でどれくらい残ってますかね。
太りすぎていて耕してる最中に倒れてしまいそうです。
それ以前に、辺境に行こうにも決定権を握ってるのがゲームバブルの頃を忘れ慣れない老害だったりするので、ゲーム作る力よりも政治力が先に求められるのが
悲しい所。
とりあえず今はダイエット方法を模索中の会社が多そうな気がします。

まぁその場合は、「辺境」の「諸国」「蛮族」に
滅ぼされたり、飲み込まれるんじゃないでしょうか。
元気の資本提携が コナミ→パチスロや携帯
電話の会社、となったのが一例かと。
究極的には、狭い意味でのゲーム会社がすべて
滅亡しようが、それもまた歴史でしょう。
例えば、ゲーム言論でいえば、携帯電話のゲームが
ゲーム全体に占めるシェアの割にあまりにも
無視されすぎていたり(まぁマニア心をくすぐらない
のかもしれませんが)。
また、ファミ通等のゲームメディアがあまりにも
旧来のコンシューマーゲームに寄りすぎていたり。
実際の趨勢/勢力と、文化的/制度的/経営的認識の間に
ズレが生じているのが現状でしょう。
そのズレを修正し、認識および制度・経営的な変化を許容できるか、
それともズレを修正できぬままに時間を過ごすのか。
前者が「帝国」を築くということであり、後者が「王国」が滅びるということです。

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