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このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2006年09月15日

2006年は「テレビ2.0元年」

テレビの周辺を巡る議論や競争がにわかに慌ただしくなってきました。ちょっとここらで、簡単にまとめておきたいと思います。

1.YouTube
最大の変化はYouTubeの浸透。テレビ放送という概念を大きく揺さぶっただけでなく、YouTubeを観るデバイス(つまりPC)をテレビに近い地位に引き上げる勢いを感じます。PCの画面を家族でいっしょに観る習慣は無いため、いきなりテレビを置き換えることはないものの、個人向け、独身向けであれば、十二分に置換可能なポテンシャルを持っています。

2.iTV
そして次はアップルのiTV発表。今週最大のトピックと言っても良いでしょう。iPodとPCで育て上げたiTunesサービスを大画面テレビに接続する製品であり、アップルのリビング攻略の第一歩です。全貌は明らかになっておらず、発売も来年ですが、あえてこの段階で発表したという事実が、ジョブズ氏の「時は来た!」という思いを表しているのでしょう。いわゆる10フィートUIは、Apple RemoteとFront Rowでくると思われます。
CNET Japan Blog - 中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル:着実にコマを進めるApple

3.Wii
さらに次も今週の話題で、任天堂のWii。テレビにチャンネルを増やす機械という説明と共に、Wiiチャンネルを発表。ネット上の意見を見ると、ゲーマーの間には少し微妙な空気が漂っている一方、IT系やネットサービス系の観点で語っている人たちが激しく興奮しているようです。

 任天堂という企業が考え抜いた、インターネットに対しての回答の結集。いや、それでも表現としては十分と言えない。コンピュータの発達によって年齢差によって起きているデバイド=格差を完全に解消するための解答。それでも、説明ができているとは思えない。それだけ懐が深い、イノベーティブなハードであるということだ。
(略)
今回の発表で痛感させられたのは、今コンピュータの技術革新で求められているのは機能の高度化ではなく、いかに多数の人が、いかに簡単にインタラクティブな環境に触れることを可能にするかというインターフェイスの問題だということだ。パソコン嫌いの高年齢の人でも、即理解し習得できる優れたインターフェイスを生み出すことの方が、ハイエンド商品を作るよりもはるかに難しいのだ。

4.PS3
そして来週はいよいよ東京ゲームショウ。最大の話題は当然PS3。ゲーマー的にはハードが高い、ソフトが高い、高い、高い、高い、という点に目が行きがちですが、注目すべきはそこにあらず。なにしろソニーはずっと「ゲーム機じゃない」と言い続けてきましたし、特にここ数年は継続してゲーム機の家電化を模索してきました。その集大成であるPS3にどんな機能が秘められているのか、大いに気になる所です。

本体にどのような機能が組み込まれているかも興味がありますが、やはり何といっても最大の関心事は「10フィートUI」でしょう。PS2のコントローラが家電のUI足りえないことは、ソニー自身が嫌というほど知っているはず。EyeToyベースの技術を使うつもりなのか、それとも家電的な操作を行うためのリモコンを付けるのか。あるいはPSプラットフォームの力を信じて、両手型のワイヤレスコントローラで勝負するのか。

5.Tナビ
UIといえば、忘れてはいけません。松下とスクウェアエニックスの提携も今年の話題でした。目の付け所は良く、ビジネスの準備も素早い。UIEvolutionを擁して、技術的な下地も十分。テレビ2.0時代の到来に向けて、早々と動き出していたのもさすが。

ただ、懸念されるのは、実際のサービスがなかなか出てこないことです。あれだけオンライン、オンラインと連呼していたのに、アバター型オンラインサービスはいまだに手つかず、Web2.0型オンラインサービスではテクモに先んじられています。インパクトのあるサービスをどのタイミングで発表できるかで、テレビ2.0時代の最有力トップランナーになるか、周回遅れになるか、明暗が分かれると思います。


YouTube(を密接に利用するデバイス)、アップルのiTV、任天堂のWii、ソニーのPS3、松下&スクウェアエニックスのTナビ。どこが勝つか負けるかという、無粋きわまりない議論はとりあえず置いておきましょう。まずは2006年がテレビ2.0元年となった事実をふまえつつ、新しいリビングエンターテインメントの幕開けに素直に心躍らせたいものです。

Posted by amanoudume at 2006年09月15日 23:44 個別リンク
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コメント

コメントが長くなりますが、要点は2つです。
「任天堂とアップル」について、と「企業の適正規模」について。

まず、「任天堂とアップル」について。

今、司馬遼太郎の『アメリカ素描』を読んでいるのですが、今回の記事は、その内容を連想させる物でした。かなり長くなりますが(さすがに話が無茶苦茶面白く、あまり省略したくないので)、引用します。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓引用その1↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 私は、生物として水準なみの機能をもっていないらしい。中学のとき、簡単な体操ができなくて、それを矯正にきた教師が、あきれて(こいつはグじゃな)とつぶやいた。教室でそれをいわれることには馴れていたが、運動場でそれをいわれるのは、こたえた。
 こういう人間は、えてして方向感覚もおかしいのである。
 しかし、アメリカを旅していて感ずることは、
 −−−人間はそんなのが何パーセントかいる。
 と、能力の底辺を認識した上に、この社会は成りたっているということである。道路上の諸々の標識をみればいい。どんなぼんやりした人間でも、視野にとびこんでくる標識を見ているかぎり、目的地にすべりこめるようになっている。何町はあと何マイル、どれほどゆけば食堂あり、などというのは、親切を機械的に普遍化したものとみていい。
「日本の道路でもそうですよ」
 というのは、歴史を知らない者の奢りである。日本の場合、戦後、それも高速道路が整備されるようになってからアメリカのまねをしたもので、日本の文化の特徴から湧き出たものではない。
 かつての日本の文化は、いわば名人の文化だった。
「できないのは、お前がグズだからだ」
 という文化である。芸事でも、師匠は内弟子に手をとって教えない。盗め、という。板場の修行などは、いまなおそうらしい。グズは、たまったものではない。
 戦前、日本の道路整備は江戸時代とさほど変わりがないほど非近代的だったからでもあり、クルマ社会ではなかったからでもあるが、それにしても、公共機関はほとんど標識をかかげていなかった。一九三四年(昭和九)にタクシーの運転手になった老人が、私は助手時代から一度も道をまちがえたことがないんです、と自慢したことがある。戦前は、たれもがかれのような名人であることを平然と要求している社会だった。

(中略)

 もっとも、日本は戦後、名人主義あるいは”人はみな有能”と言う考え方をすてた。
 そのことは、日本の民間航空の客になればわかる。私のような無能力者を基準にしてサービスのすべてが動いている。人はみな私程度のものだというアメリカ式の思想が導入され、しかもそれ以上になったのである。
 一九七二年、はじめてヨーロッパへ行ったとき、何よりも、日本の旅客機のこのことにおどろいた。一八時間の飛行時間のあいだに、すっかり幼稚園児になってしまった。スチュワーデスは幼児の母であり、あるいは保母さんだった。空港に着いてからも、ただ歩いてさえゆけば、ゆくべき所へつれて行ってもらえた。
「むかしの日本を思えば、日本に対してカルチャー・ショックを感じましたよ」
 と、ドイツ在駐の日航支店長にそのことをいうと、その人は大笑した。
 ただそのひとは、
「よその国の航空会社からやりすぎだといわれているんです」
 と、小声でいった。
 そういう”親切文明”というべきシステムの元祖がアメリカだった。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑引用その1↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓引用その2↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 日本の戦車は、そのディーゼル・エンジン(とくに三菱が開発した噴射ポンプ)は世界一だったと私は思っているが、陸軍の統率部が製造費をけちったために、攻撃力と防御力においてははなはだしく劣っていた。私は在役中、もしアメリカ軍の戦車をもたされているならどんなにいいだろう、と夢想した。これは職人といってもいい下級実務者の感覚であって、軍国主義とはなんの関係もない。
 ともかくも、そういう恨み(残念な思い)というのは、年をとっても消えがたく残るものらしい。技術体系の中の労働者(戦車隊でいえば兵士)のうらみというのは、良質なものを普遍的なものと思いこむところに特徴がある。
 あのころの私どもは、アメリカの戦車に出会えば、瞬時に串刺しにされたろう。相手にかすり傷もあたえることなしにである。エンジンについてはさきにのべたが、操縦装置については、日本の場合、重いディーゼル・エンジンを動かすために、ギアの操作が複雑だった。石油をふんだんに持つアメリカのそれはガソリンだった。だから操縦は楽だった。
 それだけではなかった。アメリカの操縦装置は油圧式になっていて、ガスさえ噴かせばギアは自動的に入った。
 困難な操縦訓練をうけているとき、
「もしこれがアメリカの戦車だったら、どんなに楽だったろう」
 という内心のつぶやきは、アメリカの戦車をつい普遍的なものだと錯覚し、ひるがえって自分の脆弱な機械を見るとき、それを特殊なもの・日本的なものと感じてしまうこととつながっていた。このことは感情であるだけに、論理でどう言いくるめられても、動くものではない。
 私だけでなく、当時の日本人のたれも、それぞれの場所でそのことを思ったことであろう。繰り返すが、これは戦争という大主題とはじかのかかわりはない。

「品質」
 これは、長いあいだ、アメリカ文明を象徴するものだった。
 そのことが、アメリカにおいて、思想として、また方法論として(つまり品質管理が)確立したのは、第二次世界大戦下においてであった。品質に対する強力な統御は、軍の指導によった。
 品質の管理については、むろん高度な技術と熟練職人の伝統をもつ国においてごく”文化的”なレベルでおこなわれてきた。ドイツにおけるレンズ、カメラ、スイスにおける時計がそうであろう。
 さらには、近代工業以前ながら、日本は江戸期、大工や指物氏の世界で”文化”としての品質思想は濃密に存在した。
 フランク・ギブニー氏著の『ニュー・キャピタリズムの時代』(Miracle By Design TBSブルタニカ刊。徳山次郎訳)においても、日本文化の一特質を、
「職人が他のなんぴとにまして尊ばれる国独特の品質に対する情熱」
 としてとらえられている。
 が、それらはあくまでも個々の情熱と自負心と技倆に依存した”文化”であって、法網のように普遍性のある”文明”ではない。第二次世界大戦下のアメリカは、品質管理というこの課題を、お得意の思想として”文明化”したのである。
 つまり、戦争に必要な兵器、機材などあらゆるものにおいて、品質にバラツキがあっては戦いそのものに影響をあたえるという必要からうまれたものだった。それ以前のどの国もこの品質管理(QC)というものを思いつかなかった。
 その思想と方法が日本に導入されたのは、戦後十年をへた一九五六年ごろで、のちに南極探検隊長になる西堀栄三郎博士が主唱の中心的存在だったように記憶している。
 その後、日本の工業社会ではQCが職場の末端サークルにいたるまで普及し、日本産業の基本的性格の一つになった。
 フランク・ギブニー氏の前掲の本では、日本のニュー・キャピタリズムにおける「思想面でのアメリカの貢献」のなかで、この一項についても論じられている。

  ……それらをアメリカの借りもの、模倣、改良、歪曲と呼ぶのもよいだろう。しかし、
  とにかく日本の成功物語のなかには多分にアメリカ的要素が含まれているのだ。

 そのように、書かれている。
 しかし品質管理に関するかぎり、アメリカが、いかにも”文明”主義的性格(普遍性を偏好する性格)の国らしく開発したこのことが、戦争がおわると、法や監督による規制をすてた。つまり、企業ごとの”自由”にまかされた。日本は従来の文化にそれに適応する遺伝体質があったのか、貝が自分のカルシウムで真珠をつくるように、自分自身の”文化”にしてしまった。日米のこの差異は大きい。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑引用その2↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

(・・・タイプするのが疲れました)「どうやら、先の大戦の教訓は生かされているようですね。」と言いたくなりますが。というか、話題を本筋に戻すと、日米逆転というか、任天堂は、親切「文明」の限界(「自由度」の限界)を、アップルは、ハッカー「文化」の限界(「名人主義」の限界)を、抱えているように見えました。どちらが優位かは分かりませんが、どちらも生き残りそうな感じもします。あと、任天堂は、このブログも含めた、ネット上の議論を良くチェックしているなと。いや、自意識過剰かも知れませんが。

次に、「企業の適正規模」について。

半分戯言です。ネットの普及によって、企業の適正規模が変わって来ているような気がします。要は、「機動性がさらに必要とされるようになった」ことと、「製品の境界があいまいになったために、部門の境界もあいまいになったため、別部門との協調が非常に難しくなった。つまり、明日、自社の別部門が競合相手になりうる可能性も出てきた。よって、その時によってパートナーをフレキシブルに変えられるほうが有利ではないか?」という話です。
正直、ソニーやマイクロソフトを見ていると、自社の別部門が足を引っ張っているようにしか見えないですね。

非常に長文の、面白いお話を投稿していただき、ありがとうございます。
親切さという点は確かに任天堂の競争力の1つであり、限界かもしれ
ませんね。ハッカー文化的な、例えば開発キットをユーザーに配る
といった事はこれまでチャンスがあってもしてこなかった企業ですし。

逆に、アップルクラスまで、ハッカー文化な企業は日本のゲーム
会社には存在しないように思います。日本は良くも悪くも、親切さが
圧倒的な評価軸になってしまっている感じはしますね。あえていえば、
同人、フリーゲーム界隈にハッカー文化的な残滓が少し見られる
ぐらいでしょうか。

SNS的なものはSCE・MS・任天堂の三社ともに狙っている節がありますね。

Wiiはアバターのデータをリモコンに入れて持ち運べるようで、DSのすれ違い通信などと同様、ネット上だけでなく現実も巻き込もうとしている点が面白いと思います。

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