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このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2006年06月22日

「発散型」から「ジグソーパズル型」へ

『涼宮ハルヒの憂鬱』も残り2話。
今までバラバラに見えていたパズルのピースが嵌まっていって、1枚の絵に収まろうとしていますね。

視聴者と商業主義のWin-Win

アニメ版『ハルヒ』は色々な仕掛けが大きな話題を呼びました。物語が時系列順に並んでいないこともその1つです。しかし素晴らしいのは、単に売上を高めるためのアコギな手段ではないことです。作品の演出としても効果的なんですね。この2つを同時に成し遂げたから、『ハルヒ』は大いに支持されました。単純に商売のためだけなら、仮に信者は取り込めたとしても、信者以外の層に広がりはしなかったでしょう。百戦錬磨のアニメオタクは、そこまで安い手には引っかかりません。

例えば、『ライブアライブ』を12話に持ってきたことで、放映直後に劇中歌集CDが発売されることになり、あり得ない勢いで売れています。しかし『ライブアライブ』がこの位置にあるのは、最終回に向けて焦点をハルヒとキョンの関係に絞り込んでいくためです。みくるの出番を原作以上に抑えつつ、前半でハルヒを、中盤で長門を立たせる演出の流れ。そして最終3話ではハルヒとキョンを中心にしたエピソードを3連発。見事な構成です。

また、第12話『ライブアライブ』と第1話『朝比奈みくるの冒険』は、どちらも文化祭の出来事です。短編エピソードの始めと終わりを対比させる演出になっています。キョンのハルヒに対する姿勢が変化していること、他人に対して無関心なハルヒが他人を手助けしていること。2つの変化が見逃せません。


発散ではなく、収束

アニメ版『ハルヒ』はエピソードが時系列順に並んでいません。それを悪く捉えれば、「謎をばら撒いて視聴者の興味をひくため」「構成を入れ替えることで原作を読みたい気にさせる作戦」という解釈になるのかもしれません。しかし現実には、多くの原作未読者が好意的にとらえたから、ここまでのハルヒ人気になったわけです。

『ハルヒ』の時系列を無視した構成は、作品としての演出意図がしっかりあります。

  • 時系列に並べると、『憂鬱』6話+短編8話になり、中途半端なところで最終回になる。
  • 『憂鬱』のラストをアニメの最終回に持っていくとすると、『憂鬱』6話の間に短編エピソードを挿入していく構成にならざるを得ない。
  • ある時点より以前ではキョンはハルヒを「涼宮」と言い、ある時点より以後では「ハルヒ」と呼んでいる。そこから、ある時点で2人の関係を変える「決定的な出来事」があった、と推測できる。
  • ある時点=『憂鬱此戞畉能回に向かっていく構成になっている。
アニメの開始当初は謎が増えていき、発散していくように見えましたが、ジグソーパズルが埋まって徐々に1枚の絵が浮かび上がっていきます。謎を投げっぱなしで放っておく作品とは、明確な違いがあります。


広げたものを畳もうとする意識

『エヴァ』以降、劇中に謎を散りばめる作品がおそろしく増えました。その大多数は、謎を投げっぱなしのまま終わりを迎えるものでした。謎の「発散」こそがオタクの好奇心を刺激し、人気を煽る手段だと考えられたのです。確かにそれは、ある時期まで有効な手法だったのかもしれません。

ところがある時期を過ぎると、謎を投げっぱなしの作品が人気を集めなくなったと思います。支持が長続きしません。消費者に手法を見抜かれたのかもしれませんし、消費者が投げっぱなしの作品を追い続けることに疲れてしまったのかもしれませんし、消費者が短気になったのかもしれません。

そういう空気を肌で感じるのか、最近は作り手の側に「終わらせる」「広げたものを畳もうとする」意識が強くなってきた気がします。先日最終回を迎えた『DEATH NOTE』はその一例です。また『ひぐらしのなく頃に』にしても、竜騎士07氏は以前から、謎を投げっぱなしのままにしておく作品が多いことに不満を表明していて、言葉どおり答えを示し、この夏の『祭囃し編』で物語に決着をつけようとしています。どちらの作品も畳み方に雑な部分があって、そこで失望感が生まれました。けれども、連載をダラダラ続けたり、いつまでも解決編を出さなければ、おそらくもっと悲惨なことになっていたと思います。


作り手が終わらせても、物語は終わらない時代

漠然とですが、「終わらない物語」「謎が発散していく物語」から「終わる物語」「謎が収束していく物語」へのシフトを感じています。より正確にいえば、テンションを持続可能なうちは終わらないし、発散するが、最後は終わるし、収束していく物語です。別の言い方をすると、「ユーザーを裏切らない物語」です。ユーザーがより短気に、より飽きっぽくなっているため、いつまでも続けようとしても、途中で見捨てられたり、飽きられたりするのです。そういう悪い終わり方をしてしまうと、次を買ってもらえません。信用されなくなるからです。

もちろんユーザーの中にはどうしても「終わらせたくない」人はいるでしょう。しかし今はネットが発展していますから、その気になれば、永遠に終わらせない事も可能なのですね。作り手が終わらせたところで、どうしても終わらせたくないユーザーは勝手に続ければいいのです。今はそれが可能な時代です。

逆にいえば、作り手自身が永遠に続ける必要は無いのです。適度に広げて、適度に畳む。「発散型」から「収束型」「ジグソーパズル型」へ。『涼宮ハルヒの憂鬱』はその良い例だと思います。

Posted by amanoudume at 2006年06月22日 07:12 個別リンク
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コメント

小説であれば語り手の一人称以外の視点、
語り手が見ていない所から見た物語と並進させて
発散、または回収させていくやつと似ているかもしれませんね。
まぁ要するに受け手の興奮や緊張感を中だるみさせず、
物語が終わった後でも残せるようなモノが求められているということですかね。
少し関係ないですが「ミスティックリバー」という映画もそんな感じ。

私はアニメにあまり詳しくありませんが、ちょっと思ったことを書いてみたいと思います。

ハルヒで少し気になったのは、EDの映像に限って言及しても、未回収の伏線があることですね(七夕の告知とか、シャミセンとか)。しかしながら、よく考えると、前記の未回収の伏線は、サイドストーリーのものであることに気がつきました。

とすると、この作品は、(話数のシャッフルと)次にどのエピソードが放映されるか分からない短編モノで(エヴァのテーマの一つであった)予測不能のライブ感を出しながら、メインストーリー(憂鬱シリーズ)で計算されつくした予定調和に物語を収束させるという狙いだったという予想が成り立ちます。

要は、事後のライブ的な短編モノと事前の予定調和的なメインストーリーの時系列を意図的にシャッフルし、しかも両者の時空的ギャップ、つまり、「行間」で視聴者の想像力を刺激しつつ、一部では補完関係にするという重層構造を採ることによって、情報のハイブリッド的ハーモニーを醸し出した構成演出がこの作品のすごいところの一つなのではないか、などと思ったりしました。(大げさかも(笑)。でも、上記の理由でこの作品はエヴァが提示した手法の一つの限界を超えたのは確かだと思います)

まあ、今後、ライブ感と予定調和を両立させる方法としてこの手法が主流になるかはともかく、主人公のシャッフルなどの他の手法を考えても、方法はいくらでもあるような気はしますね(時系列のシャッフルはゲームシナリオに応用が利くかも、とか。すでにあるかもしれませんが)

トラックバック飛んでないみたいなのでこちらで
http://blog.livedoor.jp/be_halo/archives/50540216.html

>bin3336さん
> よく考えると、前記の未回収の伏線は、サイドストーリーのもの
> であることに気がつきました。

ですね。
『DEATH NOTE』も『ひぐらし』も畳み方(伏線回収)は若干強引で、
完璧ではありませんが、大筋では終わらせていました。
ぶっちゃけ、風呂敷を広げてしまうと、完璧に畳み込むのは無理
なんでしょうね。

時に言われる事ですが、大人気作品とか名作と呼ばれる作品は、
完璧ではなくて、それを少し欠けた、綻ばせたものである、のかも
しれません。

> エヴァが提示した手法の一つの限界を超えたのは確か

同意です。
bin3336さんの「ライブ感」という言葉は、とても大切なキーワードで、
ネットマーケティング、ネットを媒介して広がるコンテンツを展開する
人たちが最も重視すべき点の1つでしょう。
ストーリー系メディアのような、一方向からユーザーに対して情報を
流していくメディアでは特にそうです。

A) ストーリー系メディア → ライブ感+予定調和
=終わる物語と終わらない物語の調和
=クリエイターの制御する部分とユーザーの制御する部分の調整
=ストーリー2.0

B) MMORPG、ポケモン、どうぶつの森
→非ストーリーの箱庭世界+コミュニケーションツール
=ユーザー同士のコミュニケーションの集積物の代表例としての物語

A)すなわち従来ストーリー系メディアと言われていたコンテンツ群
にとって、1つの大きな課題はネット以後の消費の時代をどう
生きるかということです。

>厨房さん

スパムトラックバック欄に自動振り分けされていたようです。
トラックバックの掲載が遅れて、申し訳ありませんでした。

パッケージングの仕方の違いが
ユーザーの傾向に影響を与えているので
今回のハルヒのケースは、手法がより洗練されて来たと見ています。

80年代のガイナ作品は、ひたすら中身にオマージュを散りばめていた。
ライブ感は、ガイナというチーム自体がもたらす雰囲気でしょうか?
(SF大会、ワンフェス、ガイナ祭など)

90年代は、エヴァと庵野監督という、よりセルフィッシュな
形において上記の内容をパッケージしている。

TVでは「踊る大走査線」の出現。
レイアウトは押井風、コラージュ&リンクはエヴァ風。
(実写ではキャラ性弱いけども)

あと「探偵物語」の影響を色濃く受けた「カーボーイビバップ」は
出自がガイナの「蒼きウル」チームの末裔という混血。

世紀の分け目のに現れた「ガンパレードマーチ」は
エヴァの現象を、ネットワークゲームと見立てた企画。

完全に企画をコントロールし、イベントの進捗を
BBSの情報開示と絡めて、展開した手腕は見事でした。

同人からは、月姫やらひぐらしが寵児として現れる。
インディペンデントで、ライブ感はばっちり!
独自の世界観を、複数の作品でリンクしている。
ひぐらしはこれからなのかな?

DEATH NOTEはちょっと物足りませんね。
Lとライトの物語の収束が、後進キャラ二人では弱かった…
でも佳作ではあります。序盤から中盤にかけては見事した。

それを考えると、ハルヒの企画としての進捗は出色の出来です。
現場と中間と原作側とプロモートが、上手くかみ合っている感じ。

今までの文脈をちゃんと分析して、原作をチョイス!
後は広報とスケジューリング。現場のリーダーがそれに乗った。

私は業界の者ですが、現場や上はアクロバティックな事を嫌うので
よっぽど強力な製作体制が、敷かれているんでしょうね。

とにかく、リンクして、ピースがハマッテ、放り投げられて、と気持ちがいい。

「発散型」はプロモート不在からくる、しかたの無い状況であって
ハルヒは「発散型」の情報管理システムが円熟してきたモノかな?

企画の形としては、2つの間には差は少ないですね。

後、ハルヒのポイントは「オリジナル」ではなくて「原作主導」の
従来の枠の中で、行われたと言うのも見逃せない事実です。

京アニは現在の形にするまで、10年以上思考錯誤してきたとか?
京都にあるのも意味があり、京都でするのも意図を持っているらしい?

仕込みの年数を考えると、次か次にやる京アニのオリジナル企画が
彼らの当座の目標であり、注目すべきイベントでしょうか?

なのでWeb2.0とかの2.0モノというよりも、情報が揃ってやっと
現場も上も説得が可能になり、丁寧に作り始めたと言うのが感想です。

でも、純粋にハルヒは楽しいですね!

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