橋本紡の初めての非ライトノベル作品。恋人を失い、玄関でしか眠れない「わたし」。亡くなった恋人の親友で、現在の恋人の「僕」。3人の関係を描いた愛とゆるしの物語です。
『猫泥棒と木曜日のキッチン』と比べても、ますます物語の起伏が無くなっています。冒頭の一文が一番インパクトがあるんじゃないかなあ、というぐらい。さすがにここまで起伏が無くなってしまうと、たぶん売れ線からは遠ざかってしまうんでしょうけど。でもこういうのを書きたいんでしょうね、本人は。
橋本紡には、2つの作品の流れがあって、1つは『半分の月がのぼる空』のようにまだライトノベルの枠内にとどまった作品群。そしてもう1つは、『毛布おばけと金曜日の階段』『猫泥棒と木曜日のキッチン』のような文学的な作品群。『流れ星が消えないうちに』は後者の流れに属しています。
どちらの流れでも特徴的なのは、親の存在感が希薄だったり、親が情けなかったり、子供が親を捨てたりすることです。『半分の月がのぼる空』の主人公とヒロインは共に、父親を亡くしています。『毛布おばけ』の主人公も、父親を交通事故で失っていて、母親は心が折れて病院に入ることになり、残された「わたし」とお姉ちゃんは二人で暮しています。『猫泥棒』では、父親はいなくなっていますし、母親にしても小説の冒頭が「お母さんが家出した」です。『流れ星』の主人公である菜緒子は、九州に転勤した父親、母親、妹とは離れて暮しています。もっともこの本では、母親と喧嘩した父親が彼女の所に家出してくるのですが。
なんだろう、この親の不在感みたいなものと家族っぽい人間関係の両方に、妙に説得力を感じてしまいます。リアリティーというか、信じられる感じがするんですよね。昔っからボクは「擬似家族」モノには弱いんですがね。しかし「擬似家族」モノに弱いというのは、それはつまりリアルの家族を信じていないからかなあ、なんてことも思ったりするわけですが・・・・。
もう1つの特徴は、家の中の場所についての独特の感覚。『毛布おばけ』では、「わたし」とお姉ちゃんとお姉ちゃんの恋人は毎週金曜日、階段の踊り場にケーキやお菓子を並べて、ちょっとしたパーティをします。『流れ星』では、主人公は玄関に布団を敷いて寝ています。他の場所では寝つけないのです。階段にしても、玄関にしても、人が入ってきて出て行く場所であり、通過点です。おそらくずっとそこに居ることはできない。しかし少なくとも小説の開始時点において、彼女たちはそこにいないと生きていくことはできないのでしょう。
場所と機能のズレというのは、どう書くかによって小説家の感性が非常によく出ますね。橋本紡はどんどん上手くなっています。はたしてどこまでたどり着くのか。ぜひとも「曜日シリーズ」は続けてほしいですね。
Posted by amanoudume at 2006年03月08日 00:30 個別リンク