最近の記事
カテゴリー
過去ログ
検索


このサイトについて
このサイトは、ゲーム開発、およびゲーム周辺の周辺技術や動向について日々考察し、毒舌的に物を書き続けることを通して、「ゲームの未来形」という大テーマに対して、何か考えを深められるといいなあ・・・・・・というサイトです。

2006年03月01日

ゲームはストーリーよりも日常を描くのに向いているのかもしれない。

物語についての議論

巡回先のとあるエントリーを読んで、なかなか面白い議論だなあ・・・・と思っていたら、よく見るとうちが震源地の1つだったようなので、ちょっと反応しときます。
発熱地帯:『狼と香辛料』→FIFTH EDITION 「物語のトリック」→Something Orange。

FIFTH EDITION 「物語のトリック」

主人公ってのは、一歩歩いたら、地雷が爆発するか、天から隕石が落ちてきて
頭を直撃するような悪運の持ち主でないといけなかったわけだ。
少なくとも、ストーリー漫画の主人公・ヒロインは。
そして、それで助かるのが喜劇スタイルの物語で(少年漫画、バトル漫画といってもいい)
それで死んじゃうのが悲劇スタイルの物語だったのである。

で、なんだけど今日、発熱地帯さんで『狼と香辛料』を読んで、やはり、これが飽きられてしまったのかな、と思い悩んでしまった。

Something Orange 2006-03-01(水)
Something Orange 2006-03-02(木)

リンク先では、村上龍の「全ての物語は主人公が穴に落ちる→穴から這い上がる/穴の底で死ぬという話型で出来ている」ということばを引用し、ほとんどすべての物語がこれに該当することを語っている。
 そして、その上で、このパターンが飽きられはじめているのではないかと懸念を表明する。しかし、ぼくはそれほど心配する必要もないとおもう。
 この物語の基本構造は、単純であるために、強烈な普遍性をそなえている。いまさら飽きられるようなものとも思えない。

FIFTH EDITIONさんは日頃からストーリー系(ドラマ、アニメ、漫画、小説、ゲーム)の未来に強い危機意識を持っておられるので、こういう反応をされるのは至極納得です。確かにストーリー系のコンテンツの売上が落ちているようですし、クリエイターの将来が先細っていく懸念はあります。ぶっちゃけ、ストーリー系コンテンツで10年、20年食っていこうというのは、なかなか覚悟が要る話です。


ゲームはストーリーよりも日常を描くのに向いている

ゲームの話をします。最近、ゲームの本来の楽しみではないストーリーの部分をそぎ落としたライトなゲームが好まれています。DSの大成功が良い例ですが、とても勢いを増しています。一方でストーリ性を追求するゲームは『FF7 アドベントチルドレン』のようにゲーム部分を完全に排除した非インタラクティブな形式に向かっています。また、『ひぐらしのなく頃に』のように選択肢の無いノベルゲームも登場し、選択肢の無いスタイルが広がりつつあります。

いろいろなゲーム系ブログの最近の記事を読んで感じるのは、表現力が上がってくるにつれて、ゲームとストーリーの相性の悪い部分が目立ち始めた、ということです。またボクは、ゲームは「日常」「世界そのもの」を表現するのに非常に適したメディアだと感じています。

ゲームの中で「日常」を表現することにチャレンジしてきたのはいわゆる美少女ゲームです。美少女育成モノには必ずカレンダーがありますし、『To Heart』のようなノベルゲームにさえ存在するわけです。純粋にノベルゲームとしてみれば、カレンダーという形式は不要なのですが、学園生活という日常を描くための演出として外せない物なのでしょうね。逆にいえば、『To Heart』はシナリオの面白さを追求するより、日常を描くことに注力したゲームデザインです。

近年では、『nintendogs』という犬との日常生活をそのまま遊びにしたゲームが全世界で500万本売れ、大成功しています。『どうぶつの森』も村での生活をそのまま遊びにした作品です。MMORPGは数千人で1つの世界を共有し、生活します。
(参考:ポップ・コラム 「死なない子犬と過ごす永遠の時間。ニンテンドーDS『nintendogs』」

『脳トレ』もまた、毎日遊ぶ(トレーニングする)ゲームです。カレンダーにスタンプを押していくという形式は非常に印象的で、1つのスタンダードを打ち立てた感があります。あのカレンダーは、おそらくラジオ体操のスタンプからきているのだと推測しますが、ゲームへのカレンダーの導入は10年以上前に美少女ゲームがやっていたことです。カレンダーは日常の良いメタファーですし、ゲーム進行のテンポとしてわかりやすいんでしょうね。

ストーリー的な起伏を抑えて(あるいは無くして)日常そのものを表現することに特化するという路線は、ここ数年で急速に存在感が確立してきました。ゲーム1.0=非日常、ゲーム2.0=日常という乱暴なくくり方をしても良いぐらいです。ゲームの未来を完全に予想するのは不可能ですが、しばらくは日常ゲームが元気なんじゃないかと思います。


物語は不滅だが、流行り廃りはあるのかもしれない。

・・・・と、物語を否定するような論調ですけど、ボクは別に否定派のつもりはありません。もし否定派なら、あんなに何度もノベルゲームを取り上げたりしません。ただ、ゲームに限れば、今は「日常」派(?)が元気な時代です。数年単位か、あるいはもう少し長い単位での流行り廃りってのはあると思うんですよね。

それと「型」としての物語は不滅でも、メディアの問題があります。例えば、「あずまんが大王」的なもの、4コマ漫画的なものは、普通のストーリー漫画に比べると日常を描くのに適しています。物語の起伏はあまりなくても良くて、日常性を味わいたいというニーズは、いわゆる物語メディアの読み手にも存在します。これは、小説をたくさん読んでいるうちに、筋書きよりもディティールにこだわるようになる事とは別の話です。

けれども以前は、物語の起伏がハッキリした作品を好む人に比べると、少数派だと思われていました。いや実際少数派でしょう。けれども原因は、実は小説や漫画、アニメという非インタラクティブなメディアが「日常」を表現するのに適していないからなのかもしれません。もしかすると、潜在的には「物語の起伏が薄くても、日常性が高いもの」へのニーズがあるのかも。

確かにこの10年を振り返ると、『ときメモ』の構造は『To Heart』に敗れましたし、『To Heart』の構造でさえ物語への欲望の前に押し流されてしまいました。しかしそれは、『To Heart』の構造の問題です。日常を表現するメディアとしてのゲームの適性を、完全に判断することは無理です。日常を表現するという点では、ノベルゲームは最適な形式とは言いがたく、オンラインゲームの方が適していますね。


補足

小説読みを
   ・物語重視派
   ・日常派
   ・ディティール派
と分類できるとしたら、ボクは基本的には「物語重視派」で、最近「日常派」にも片足をつっこんでいる感じです。ディティール派では全然ないです。その域に達するほどには読んでません。例えば、Something Orangeのkaienさんほど、文章にはこだわりませんし、kaienさんの書評を読むたびに、ボクの文章への鈍感さを思い知らされます。

Posted by amanoudume at 2006年03月01日 22:24 個別リンク
TrackBack URL for this entry:
http://amanoudume.s41.xrea.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/184

Listed below are links to weblogs that reference 'ゲームはストーリーよりも日常を描くのに向いているのかもしれない。' from 発熱地帯.
[story][ゲーム]ゲームは映画や漫画より「面白い」
Excerpt: 『SFを楽しむなら映画よりゲーム』 『発熱地帯: ゲームはストーリーよりも日常を描くのに向いているのかもしれない。』 を読んで。 『[http://d...
Weblog: 煩悩是道場
Tracked: 2006年03月02日 13:43

コメント

この記事が関連あるかもしれません。
・SFを楽しむなら映画よりゲーム
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20060301206.html

「SFを書く」≒「未来的世界を描く」≒「未来の日常&生活を描く」事なのでしょうね。
生活を描けるだけの解像度を持ったメディアと言う点で、ゲームが映画を追い越しつつあると。

こんばんは。
以前コメントしたことがある者です。
少し脱線するかも知れませんが、連想したことを書きます。

このエントリを読んで思ったのは、『面白さ』とは何か?と言う根源的な問いです。

今現在、娯楽は口から出てくるほどあふれています。
ネットをちらほらさまよえば、面白い物なんて無尽蔵にあるわけです。

要は、『面白さがありふれた物となり』、『面白さという評価基準の価値が下がっている(デフレを起こしている)』ように見えます。ですから、『面白い』は今でも重要な要素であるものの、それだけで勝負するのは難しい時代になったのかも知れません。
結局、他のメーカーも、任天堂のように別の評価軸を打ち出して勝負するのが常識的な戦略だと思います。素人考えですが。
(よほど作品の『面白さ』に自信がある場合は別でしょうけど)

上の議論も、『面白さ』で勝負する物語が『飽きられた』というよりも、『価値が下がった』と言うべきなのではないだろうかと思います。(しかしながら、『面白さ』という基本を押さえておかないと、他の評価基準の価値がほとんど0になってしまうのもまた現実なのかも知れませんが)で、最初の問いに戻ります。『面白さ』とは何か?

一つの考えとして、『想像力を喚起(あるいは暴走)させる力』ということがあると思います。
物語の先の展開を読者に妄想したくなる力。最強のデッキを脳内妄想したくなる力。その説を聞いた瞬間に新しい考えが次から次へと思いつかせてしまう力。つまり、想像を喚起させる作品は、『行間』の使い方が圧倒的にうまいと思います。
興味を引く素材を持ってくるのは当然としても、『何を空白にして、どうやって客に想像力を喚起させるか』というデザインがうまい。

据え置き機のゲームの苦戦も、構造的にその辺が難しくなったから、というのが一因にあると思いました。

脱線しても、興味深い話であれば、全然ありがたいです。

>ネットをちらほらさまよえば、面白い物なんて無尽蔵にあるわけです。

そうですね。
しかし同時に、例えば「実用な物」なんて無尽蔵にあるわけです。
単一の評価軸から、複数の評価軸へのシフトというのは、「面白さ」に
限った話でもないでしょうね。

「萌え」+「単語帳」で萌え単なんてものも、同じような事です。
複合的な評価軸なんて、ザラにあるんですよね、実際は。
ただ、ゲームでは珍しいというだけで。

しかし萌えブームなんてものが長持ちするのかといえば、そうでは
ないわけです。瞬間的な、短期的な価値(評価)と、長く生き残れるか
どうかは分けて、冷静に考えないといけません。実際には一過性の
ものが多いわけですから。

ある物が売れている時に、その成功の理由を語ることなんて、
実は誰でも出来るんですよね。ボクもまあ理屈好きですが、
だからわかるわけです、「そんなもん、全部ウソ」だって。

売れているという事実があると、人は容易に色々な理屈を信じて
しまうんです。そうして、原因と結果を取り違えた因果逆転の理論を
信奉するようになります。

ゲームらしくないソフトが100万本売れたって、実は小さなことなんです。
一過性で終わってしまうかもしれない。それがファミコン登場の時の
ように、新しいビジネスをビルドするようなものなのかどうか。
長く生き残る、長く食っていける構造が生まれる事が本当の『次』の
始まりです。

次の飯の種を手にするまでは、今の飯の種を手放すわけには
いきません。

> >ネットをちらほらさまよえば、面白い物なんて無尽蔵にあるわけです。
>
> そうですね。
> しかし同時に、例えば「実用な物」なんて無尽蔵にあるわけです。

思わぬ意見だったので、うーん、と長考してしまいました。
で、パッケージングが云々とか反論するのもあれかなと思ったのですが、実はこの意見は非常に重要な指摘かも知れないと思い、また連想したことを書きます。

何というか、私の意見は(次世代を含めた)据え置き機に対して悲観的な意見であった訳ですが、2chに書いてある意見などを見ると私が感じている実感を他の人間も感じているんだな、などと思います。

具体的に書くと、この辺の議論です。
> 【朝まで】テレビゲームは無駄か?【徹底討論】
> http://game10.2ch.net/test/read.cgi/famicom/1140425439/

正直言って、『ゲームが自分の人生にプラスにならないことを見破られている』感じがするんですよ。
実用性が云々という即物的な話ではなく、ゲームが単なる『時間の浪費』だと認識されていること自体が問題のような気がします。
時間の貴重性は増していますから、その貴重なリソースをプレイヤーが『ゲームごとき』に使ってくれなくなるかも知れないというか、そういえば、私もゲーム離れを起こしているなあ、などと思う訳です。

で、据え置き機の話に戻すと、結局、『時間を有意義に使っている』という実感がないのが問題の本質のような気がしています。
携帯機の場合、『ゲーム1.0=非日常、ゲーム2.0=日常』だとすると、ゲーム2.0と非常に相性がよいと思います。アクセサリ・小物としてのゲーム機であり、日常の延長として日常の合間に遊ぶイメージというか。(『nintendogs』が据え置き機で出たら今ほどのインパクトはなかった様な気がします)

そして、逆に、据え置き機はゲーム1.0で良いというか、逆に、ゲーム1.0であるべきだと思いました。
要は、大画面TVで、非日常的な『貴重な体験(=時間の浪費と感じさせない体験)』をさせるのが、据え置き機の意義ではないかと思うのです。

言い換えると、『物語を百編聞かせるのではなく、貴重な体験をプレイヤーに(擬似的に)してもらう』という、データだけでは分からないものを分かってもらう、『百聞は一見にしかず』的な方法論が有効ではないかなと思いました。
当たり前かも知れませんが、『このゲームをやって良かった』とプレイヤーに思わせること、それが重要な気がします。

>結局、『時間を有意義に使っている』という実感がないのが問題の本質のような気がしています。

これはゲームに限らず、小説などでも指摘されているところですね。
なんというか、最近の「睡眠3時間」本にも見られる傾向ですが、
ユーザーに余裕が無い感じはあります。無駄を嫌いすぎますね。

90年代後半に「うんちく本」ブームがあって、専門知識をだだ流しに
したような、やたらと分厚い本が流行ったことがありますね。

ああいう物はゲームでもあっていいのかな?
・・・・うーん。ソフィーの世界のような哲学ゲーム?

ゲーム1.0+うんちく=????
????の中身を考えてみるのも面白いかもしれません。

それはさておいても、据置機と携帯機で役割が異なるというのは、
同意です。没入型のゲームはまだ求められていると思いますし、
それを実現するのに据置が向いているのも確かです。

もう1つはテレビに接続されている関係上、リビングに存在する事を
比較的前提にしやすいことでしょうか。リビングに存在する意味を
突き詰めた先に何があるか・・・・を考えてみるのもよいと思います。

コメントを投稿

(コメントを投稿しても、管理人が承認するまでは表示されません。すぐに反映されない、最悪24時間以上かかる事もあります。ご了承ください。)